アレクサンダーテクニークは脳の指令を元に、無意識におこなってしまう体の動作の癖を意識的に行わない選択をし、体に効率の良い動きをするようにするのです。
このように書きますと「普段やらないやり方をやれば良いんでしょ!」
と簡単に捉えられがちなのですが、そんなに簡単な事ならば、世の中に腰の痛みや、偏頭痛、自律神経失調症で苦しむ人がいなくなるはずなのですが、そんな事は無く沢山の人が苦しんでいるのが現実です。
自分の癖に気付き
まずここまでが大変なのです。
だって簡単に気付けたならば先程言ったように皆がどんどんスキルを上達させて世の中には天才と呼ばれる才能豊かな人だらけになるはずなのです。
これは大袈裟に言っているのでは無く事実です。
大抵の癖は気付けない。
そしてもっというなら
「気付きたくない」
ものなのです。
癖と向き合うには自分の過去の失敗を全て自分自身で責任を負わなければなりません。他人のせいにできないのです。
「癖」が受け入れられない。
本能的にこの「気付き」を認識させないように守りに入ってしまいます。
次に、より良い体の方法を選択する。
これは取り組みやすい事ですね。
指導者に
「 あなたは〇〇するようにしましょう」「あなたはこの体の部分を〇〇のように動かしましょう」
と言われた事は結構簡単に取り組めます。
なので一生懸命指導者の言葉の通り努力をします。
しかしある程度上達したところで、スキルの「高止まり」が起こります。
そして、そこからは何をどうしても「変化」は起きず、仕方なしに指導者を変えて新しい「方法」を学びに行きます。
しかし新しい指導者のところでも「高止まり」が起こります。
この高止まり状態を何度も経験するうちに「才能が無い」「向いていない」という言葉が浮かぶのです。
この高止まりの理由は「癖」が止められないからなのです。
私のレッスンでは「癖」に気付けるよう、そしてより良い方向を同時に進行させていきます。
そして、大半の人は「大きな変化」が起きます。
「目から鱗」などという言葉を頂きますが、実はここが運命を別れ道です。
出来たと思ったのに出来なくなる事
この事象が現れてくるのです。
「出来た」
この言葉は大変恐ろしい言葉です。
一見ポジティブな言葉に感じますが、私にとって、いやアレクサンダーテクニークにおいては、一番ダメな言葉です。
なぜダメな言葉なのか。
それは
人は「出来た」と思った事に関しては注意を向けないからです。
出来たと認識した時から、脳を使って意識をする事をやめてしまいます。
大抵は「やっているつもり」ですが、「忘れてしまう」人もいます。
これは現代の脳科学ではある程度認識されています。特にスポーツ系の脳科学の世界ではメジャーになっていると思います。
そして、「出来た」と認識した時から脳から指令を与えなければどうなるのか?
それはやる前に戻るのです。
「癖」が復活します。
復活というより、思考により選択してやらなかっただけなので、思考が無ければ簡単に元に戻ります。
そして「出来た」記憶は残っていても、やるべき事は自分の脳のタスクからも外されます。
そして、大抵の人はどんどん元のようになっていき、やっているはずなのに出来なくなり混乱が生じます。
やるべき事(選択して指令を与える)がタスクから外されるという事は、出来なくなる事なのです。
出来た記憶はあっても幻の様に再現はできません。
ではどうすれば良いのか
それは
「出来る事は一生無い」
と認めるのです。
なのでずっとやり続けるのです。
もちろん体にとって効率の良い方法を選択して体を動かしていれば、それに沿って体は必ず変化します。
ですからしばらくは「何も考えなくても」出来ていることがあります。
でも大抵は1ヶ月もあれは元の更地に近い状態になってしまいます。
私は以前「誰でも天才になれる」と書いたことがあります。
確かに誰でもその可能性はあります。
しかしこの「出来た」と認識してやめてしまう人が99%なので天才にはなれないのです。
天才と呼ばれる人は、それに適した体の動作に癖がありません。
若い時は筋肉のチカラがあるので、わかりづらいかもしれませんが、天才と呼ばれる人たちは年齢を重ねても「衰え」による極端なスキルの下降は見られません。
アレクサンダーテクニークでは様々なことが学べると思います。
しかし学んだ事が簡単に失われる事も頭に入れてほしいのです。
「出来た」
は私にとって、アレクサンダーテクニークにとっては悪魔の言葉です。
これは体にとって「否定語」です。
ではどのような言葉を使うのか
「もっともっとやらないと」
「まだまだ出来るようになる」
「ゴールはまだまだ先」
と言葉を言い換えて欲しいです。
そして簡単に「出来た」事は簡単に「出来なくなる」事であると認識して欲しいと思います。
「出来た」は禁句です。